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僕の好きな風景 第1回 ぼくの沖縄原風景

僕の好きな風景 第1回 ぼくの沖縄原風景

ぼくの沖縄原風景

1959年に嘉手納町(当時は村)に生まれ育ち、今は東京で働いています。
実家は嘉手納基地のすぐ近くにありました。
元々、両親は現在の基地の中の集落で生まれ育ち、戦後追われて、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた家に住んでいました。
ぼくはそこで生まれて、基地の爆音に悩まされながら、B52などの戦闘機を眺めて育ちました。今思えば人権もままならない時代だったと思います(今でも、十分とは言えないでしょうけれど……)。
それでも子供たちは毎日懸命に遊び、楽しく生きていました。独自に遊びを生み出し、手を広げると届きそうな幅の狭い路地を走りまわり、ブロック塀を伝って歩き、屋根から屋根に飛び移る……何とも「わんぱく」そのものだったと思います。
実家の屋根はセメント瓦の伝統的な民家の構成で、子供の頃は雨戸しかなく、家の中と外の区別もなかったので、はだしのままで出入りしては母に怒られていたように思います。
外部と内部が緩やかにつながり、境界が曖昧なのが沖縄らしく、雨端(あまはじ)と呼ばれる軒下の半戸外空間は、ぼくらの遊び場としてなくてはならない空間でした。また、屋根の上でたこ揚げをしたり、夏休みの宿題でご近所の風景画を書いたりと、屋根の上も好きな居場所でした。
中学1年生の頃、夏休みの宿題として屋根の上で描いた絵が絵画コンクールで賞をいただき、雑誌に掲載されたため今でも残っています。
沖縄が本土復帰を果たし、その数ヶ月後に描いた絵です。
その絵を見ると、藁葺き(かわらぶき)屋根からトタン屋根、セメント瓦や赤瓦の家が混在し、それらがどんどんコンクリートの家に変わっていく様を垣間見ることができます。
小さな家が密集し、その奥に嘉手納基地の照明灯が描かれ、混沌(こんとん)とした本土復帰直後の雰囲気をうまく表現していて、われながらいい絵を描いたなあと感心してしまいます。
これがぼくの沖縄の原風景、沖縄がめまぐるしく変わっていく時代でした。

僕の好きな風景 第1回 ぼくの沖縄原風景

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