Okinawa航時機 古写真から読みとく、当時の街の姿 10月10日の大綱挽と赤レンガ塀
上)1971年 裁判所通りの沖縄刑務所赤レンガ前
下)沖縄刑務所跡地の中央公園前の風景
本土復帰「夜明け前」
1971年、那覇大綱挽が戦後最初に復活した時の旗頭行列の画像です。背後には沖縄刑務所の赤レンガが見えます。
那覇大綱挽の復活は、那覇市の市制50周年記念事業。また翌年には沖縄県の日本復帰も控え、大きな変化の年でもありました。
祭の日程は、戦前の旧那覇市が壊滅的な被害を被った十十空襲(1944年10月10日)にちなんだもので、戦没者の追悼という大きな意味もありました。日本復帰という「未来」と、戦争という「過去」が交差するドラマチックな瞬間だったわけです。そんな時代背景と、この画像のロケ地「沖縄刑務所」を重ねて考えると、ちょっと感慨深いものがあります。
沖縄刑務所は1979年に知念村(現 南城市)に移転しますが、その跡地は現在、中央公園と那覇第一合同庁舎の敷地となっています。合わせるとかなり広大な土地で、その周囲をこの赤レンガがぐるっと囲んでいたわけですから、かなり存在感がありました。コンクリート建築の多い沖縄で、レンガ作りの巨大建造物というだけでも、歴史の重みを感じるものだったと言えるでしょう。
ちなみにこの刑務所の隣には、米国統治に抵抗しつづけた不屈の政治家瀬長亀次郎の自宅もありました。その瀬長自身も1954年の人民党事件という、米国の言いがかりのような事件で、この刑務所に収監されています。また、そのタイミングで刑務所内の対応の悪さに怒った受刑者たちが暴動を起こすなど、米軍統治という沖縄の戦後史と深く関わってきた場所でもあります。
もしこの壁が残っていたら、世界遺産登録の候補くらいになったのではないかと妄想したりします。