沖縄島建築 インサイドストーリー Episode3 暮らしを伝える すーじぐゎー
週刊かふう2020年6月19日号に掲載された内容です。
Episode3 暮らしを伝える すーじぐゎー
建物を介して沖縄の歴史や文化、そして暮らしを見ていく「沖縄島建築 インサイドストーリー」。連載第3回は「すーじぐゎー」です。
那覇や沖縄のまちなかにある家々の間の狭く曲がりくねった路地、それがすーじぐゎーです。
那覇には、戦前からあるすーじぐゎーや、戦後米軍に土地を接収され帰る家のなくなった人びとが、軍政府による「割り当て土地制度」によって、無計画に住み着いた地域のすーじぐゎーなどが混在しています。
今では再開発の影響でとても少なくなってしまいましたが、生活の場としてのすーじぐゎーはまだ、そこに暮らす人びとの息づかいを伝え生き続けています。
私にとってのすーじぐゎーは、行くあてもなく歩いていて、ふと迷い込み出会う場所であり、沖縄が生きた時間を思う場所です。
今回の連載では、著書『島猫と歩く那覇スージぐゎー』で島猫とすーじぐゎーについて書かれた仲村清司さんに、暮らしのなかから見た「すーじぐゎー」について寄稿していただきました。 (岡本)
すーじぐゎーに迷い込む
まだ歩いたことのない路地に分け入ったのは他でもない。鼻腔をくすぐる香りが漂ってきたからだ。
道を挟んで六畳一間程度の家が長屋のように向かい合っている。その一軒の台所の換気窓から得も言われぬ匂いが流れてくる。
ふいに子どもの頃の記憶がよみがえってきた。豚肉を炊く匂いだ。夕暮れ時、少年野球の帰り道、家の前まできた時にこの匂いが鼻先をよぎると、即座に晩ご飯はソーキ汁かテビチ汁だなとわかったものだ。
那覇の路地を歩いていると豚を煮炊きする匂いがしてくる。ひとり暮らしが多い路地裏の住居人はたいてい老人で、オバァだ。彼女たちの大好物は沖縄の伝統食材、豚肉である。
沖縄では路地のことをすーじぐゎーという。そのすーじぐゎーこそ、市井の人たちの生活臭が直に伝わってくる場所なのだ。
僕は沖縄と京都を行き来しながらの二重生活を続けているが、いまも那覇では路地裏歩きを日課にしている。白昼、デイパックを背負った初老の男が壺屋、三原、桜坂あたりを路地から路地へと渡り歩いている姿を見かけたら僕のことだ。
1996年に始まった僕の那覇暮らしは、公園や広場をはぎ取ってできた新道が四方八方に延び、タワーマンションや高層ビルが乱立した20年間だった。この再開発で市街地の風景は激変した。
それによって御嶽や拝所は移築されたり消失したりした。そこに通じる参道も駐車場に変わり、那覇の奥座敷として親しまれた桜坂は国際通りから丸見えになった。
聖地の静謐(せいひつ)さも飲み屋街の猥雑さも急速に失われた。いつしか公設市場は観光スポットになり、共同売店は姿を消し、スーパーで販売されている総菜が県民の日常食になった。
日本のどこも経験したことのない速さで街の生態系を変えてしまった那覇は生活のありようさえも一変させた。僕はうろたえるばかりだった。
そんなとき、さまようようにまぎれこんだのが桜坂から続く壺屋界隈の小径だった。
天ぷら坂、いしまち通り、神里原など、地図にはない俗称で呼ばれている通りは僕の沈む心を癒やしてくれた。そういう場所が名もなき路地と路地を結ぶ要衝になっていた。
それらの小径は再開発される以前の道で、たとえば壺屋のやちむん通りの裏側にあるいしまち通りは、一説に3百年余の歴史があるとされる。石塀も王朝時代のもので、あの沖縄戦の惨禍も体験したのだ。
──よく耐えたものだ。
僕はここを歩くたびに掌でなでたくなるほどの衝動を覚える。
地図でみるとすぐに理解できるが、旧那覇中心部の壺屋、三原、開南、寄宮あたりの街路はどれひとつとっても碁盤状の体を成していない。どこも曲がりくねりながら、そこからさらに路地を縦横に派生させている。
ようするに路地は人間の生活圏を形成する必要性から生まれた道なのである。いいかえれば、そこに住む人たちの「私道」であり、生活路や庭先の役割を果たしているといおうか。ゆえに軒先から豚を茹でる匂いが流れてくるのも当然なのだ。
ついでながら、道が湾曲しているのは強風の威力を削ぐため。ここにも台風の島らしい暮らしの知恵が施されている。
僕はそんな人智にアゴをさすりながら、昭和の時代に紛れ込んだ感覚を愉しむようにすーじぐゎーに分け入っている。
那覇を歩くならいまのうちだぞ、と惜しみつつ……。
(仲村)