沖縄島建築 インサイドストーリー Episode4 移りゆく沖縄の団地
週刊かふう2020年8月21日号に掲載された内容です。
Episode4 移りゆく沖縄の団地
建物を介して沖縄の歴史や文化、そして暮らしを見ていく「沖縄島建築 インサイドストーリー」連載第4回は「沖縄の団地 県営住宅・市営住宅」です。
内地における住宅団地は、1955年7月に戦前の「住宅営団(旧 同潤会)」を参考にして日本住宅公団が設立されたことから始まりました。
住宅不足解消を目的に始まった団地建設でしたが、ダイニングキッチンと寝室等により構成される食寝分離の新しいライフスタイルは“時代の最先端”でもあり、一種の社会現象を巻き起こしました。
沖縄ではやはり住宅不足から法整備を待たずに、1956年那覇市若狭の海岸沿いに若狭市営住宅が建設されました。その後、1964年に首里の久場川、識名、小禄の宇栄原などに次々と公営住宅が建設されました。
現在はそれらの建物も老朽化し、次々と建て替えられていますが、今でも当時の面影を残した現役の団地もあります。
今回の連載では『沖縄島建築』で建築監修を担当した普久原朝充さんに、沖縄の団地について書いていただきました。
給水塔やスケールの大きい動物のペイントなど見どころの多い沖縄の団地。
写真とともに過ぎ去った時間や暮らしに思いを馳せてみようではありませんか。
(岡本尚文)
沖縄団地クロニクル
公営住宅の変遷には、私たちが集まって住むことへの工夫と葛藤が表れています。
もし近所の団地を訪ねるときは、私たちの生活を支えている周辺インフラに着目してみるのもいいでしょう。道路に駐車場、公園、給水塔、自治会館、保育所、公設市場、小学校などさまざまな施設があったりなかったりします。その団地が計画された当時はどのような社会状況で何が課題とされていたのか見え隠れしています。
壁に大きく動物が描かれた団地などは、愛着を持てるようにするだけでなく、自分の住んでいる棟を間違えないような工夫のひとつといえるでしょう。
沖縄ならではの変遷もあります。
戦後、戦争被害による住宅難への応急措置として米国規格の2×4(ツーバイフォー)木材を使って大量の規格住宅が建てられましたが、台風やシロアリ被害に見舞われてしまいました。
米軍統治下の沖縄ではなかなか住宅難が解消されない期間が続きます。琉球政府による公営住宅法の立法は、本土より10年遅れの1961年でした。
経済的な復興とともに都市化しつつあった那覇市には職を求めて地方や離島から多くの人が集まるような状況でしたから、法整備を待たずにいち早く公営住宅をつくりました。
米軍解放地の湾岸を埋立て若狭市営住宅が出来たのは1956年。防風・防火のためのコンクリート製の建物は、当時の人々の憧れの的で高級団地とも呼ばれていたそうです。
復帰後に建て替えられた現在の若狭市営住宅も、故・末吉栄三さんの設計により立体的な建物を空中回廊で繋いだ先進的なつくりをしています。
公営住宅法ができた後は、久場川や宇栄原、石嶺でマンモス団地が建設され、那覇市の住宅難も緩和されていきました。
那覇市外に目を向けると、本土復帰以降になって本格的に公営住宅が建ち始めます。当初の住戸平面プランは、ダイニングキッチンが初めて登場した51C型と呼ばれる有名なプランなどを準用していましたが、住宅供給が行き渡り「量より質」が求められるようになると蒸暑地域である沖縄に適した独自のプランが模索されました。
南島型住宅と呼ばれるプランでは、玄関を兼ねた南側テラスからアプローチする雨端(アマハジ)のような構成になっているものもあります。
戦後75年、そんな団地の数々も建替えの時期に差し掛かかり新たな課題と向き合う場面にあります。
なぜ私たちは集まって住むのだろうか?
そんなことに思い巡らせながら歩いてみると、単調に見える団地の風景もさまざまな人々の生活を支えている彩りあふれた空間に見えてくるかもしれません。
(普久原朝充)