都市を持て。田舎へ出よう。 第十八歩
今帰仁村運天の源為朝上陸碑だが、観光客はほとんど来ない
週刊かふう2020年10月16日号に掲載された内容です。
第十八歩「曲亭馬琴と葛飾北斎と東郷平八郎と大英博物館と今帰仁村」
田舎の面白さの一つに、田舎の道端の何てことのないモノが、実は深いストーリーを持っていて、さまざまな人物やモノや事象が「つながっている」と気づく面白さがある。
曲亭馬琴といえば(私は滝沢馬琴と習ったが)「南総里見八犬伝」。NHKでも人形劇が放映され、80年代には実写映画にもなった。浮世絵に詳しくなくとも知っているのが葛飾北斎。東郷平八郎は、日清戦争・日露戦争の英雄。世界の秘宝が眠るイギリスの大英博物館。それぞれ聞いた事くらいはあるだろう。しかし、これらが……、何と今帰仁村という場所でつながっている。という話は知らないだろう。
沖縄がまだ琉球と呼ばれ、事実上薩摩の支配下にあった1650年頃、羽地朝秀という人物が尚質王の命令で「中山世鑑」(ちゅうざんせいかん)という琉球初の正史を編さんする。正史は、その時の権力者にとって「都合の良い事実」を編さんするのが世の常だ。尚質王・琉球王家とその裏で支配する薩摩の正当性を示すために採用されたのが、平安時代に武勇を誇った武将、源為朝(みなもとのためとも)が琉球に流れ着き、為朝の子供が後に琉球の王、瞬天となるという話だ。「日琉同祖論」……琉球は元々日本であるという説の元ネタである。
時は過ぎ、1807年ごろ、曲亭馬琴は「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)という連載小説を執筆する。その話のストーリーこそ、為朝伝説……琉球王国開闢(かいびゃく)の奇想天外なファンタジーストーリーだった。挿絵は当時の売れっ子浮世絵師、葛飾北斎。これが大ヒットベストセラーとなる。葛飾北斎は浮世絵……つまり版画家だが、「椿説弓張月」の連載完結の際には、それを記念して肉筆で「鎮西八郎為朝図」という絵を描いた。
……時は過ぎ、1922年(大正11年)、今帰仁村にある石碑が建てられた。「源為朝公上陸之趾碑」……そう、何を隠そう、源為朝が上陸した場所こそ、今帰仁村の運天である。という言われがあるのだ。いわく、為朝が「運を天に任せて」たどり着いたので運天という地名になったと言う。石碑の題字は東郷平八郎が書いた。国頭郡教育部会が依頼したらしい。薩摩藩士だった東郷にとっても日琉同祖論は思う所があっただろう。
北斎の描いた肉筆画「鎮西八郎為朝図」は、現在イギリス大英博物館に収蔵されている。運天にある石碑を見ても、これらのつながりは知るよしもないだろうが、知れば石碑に面白みが出てくる。田舎は面白いのだ。
という訳で、これからは田舎の時代となるのだ。やはり。
為朝上陸碑からほど近い「運天展望台」から見る古宇利大橋。隠れた絶景ポイントとして人気が高い